【ことば倉庫】

詩集『灰も落とせない指』更新中/ほか作品集は最下部から

①風船

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机に向かって
ペンを走らせる僕の目の前に
突然、現れた
むき出しのままの鍵盤
白は弾き返すように
黒は吸い込むように
音もなくたたずんでいた

 

目を凝らすと
ぼんやりと情景が浮かび上がる
指を一本落とすと
レコードみたいに動き出す
途切れ途切れの物語
筋も、旋律も、抑揚も
描き出すすべを知らずに

一人子の魂が
気だるい調子で鍵盤をたたく
鳴らす音は
意味以外の何かを連れてくる

じっと耳の後ろをくすぐる汗
「暑いな」
小休止に窓を開けると

薄曇りに
一筋の光がさす空があった

 

 

陽の眩しさに額を絞り
あらためて目を落とすと
鍵盤はすっかり熱を強めながら
太陽の緑色だけを映し返す
手首から指へ
信号は次第に広がりを求めて
片手じゃ足りないと嘆くから
面倒でしまったふりの左手を
仕方なく、行儀よく、預けてやる

すると、どこかから
シャッターを切る音
ゆっくりと
鍵盤に浮かび上がるひとつの輪郭
少年の泣き顔
かかとを踏んだ靴
そして外れたボタン

 

――幸せとは何ですか?
彼はたずねて、消えていく

 

それは夜中に起き出して
母親にぶつけるような
ただただ一方的で、
無邪気な質問だった

 

 

その日から
僕はひたすら考えた
些細な悩みはいつも
コーヒーのそばのミルクのように
灰色の罪に
対比の美しさを伴って
頭を駆けては
飲み干す前に消えてしまう

ところが考えるだけの人間に
世間は用がないらしく
どけ、と煽り
急げ、とせかし
遠慮なく背中や胸をついた



それでも、考えた

 

 

少年は夢の中で
風船を手放したみたいな顔で
気まぐれに現われては
何度も問いかける
2003年
川沿い、橋の上
錆びた東京の空は
何を僕〝ら〟に問いかけた?

手をかけた瞬間
音楽が始まるんだ
指を離すと
またふっと途切れてしまうんだ


手ごたえのない紐をたぐる
離したら
指を切りそうな
答えのないピアノ線を
そうだ
何かを掲げる先には
きっと飾りがいるだろう

薄い膜に言葉を流しこむ
無理を通すように息を吹く
分かってる
気球には足りないこと
身体ごと連れ出してくれるなんて
ないってこと


頬をふくらませ
舞いあがるように
物語は宛てもなく飛んでいく
願いを載せた
淡色の短冊をたずさえて

その重みに自らを震わせて
風の音を聴きながら


ー1月<幸せ>の言葉ー