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詩集『灰も落とせない指』更新中/ほか作品集は最下部から

【3】Miracle Night Diving

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3. Miracle Night Diving/2003年12月28日

僕は八王子の自宅から立川駅まで、おんぼろのRVRを走らせた。ちょうど前年に生産を終えたばかりの車種だ。後部座席には適当なCDと、一泊分の軽い荷物を少々。荷崩れしないようにコートをかけたら、即興の旅支度が完成する。


立川駅南口の入り組んだ道を縫うように進み、できるだけ邪魔にならない位置で車を停めた。右手にビリヤード場、左手にはバッティングセンター。どちらも高校生の頃によく遊びに来た場所だ。50メートルくらい離れたところに雑貨屋があって、店頭には無数のシルバーアクセサリーがキラキラと光っている。そこが文さんの職場だった。

もちろん何度か入ったことはあるけれど、文さんの師匠に当たる店主があまりにも不愛想で、いつしか足を運ばなくなった。最後に来たのは2年くらい前。車で迎えに来たのはこの時が初めてだ。

運転席から眺める一帯はやたらと狭く見えた。時刻はもうすぐ21時。路肩には無秩序に自転車が並び、キャバクラや風俗店の客引きが巣穴から這い出るように現れてくる。

雪が見たい。そんな願いを受けて1週間後、2003年最後の日曜日だった。

 

 

「わがまま言っちゃったかな?」
文さんは助手席に乗り込むと長いスカートをたたみ、なのが物珍しいのか、車内のいろんなパーツに触れた。指にはいつものように無数の指輪がはまっている。その細長い指はハンドトルソーとして最適だ。子供がはめるようなチェーンリング。さまざまな色と素材のスタックリング。ひとつひとつゆっくりと外していき、やがていくつかの「本物」が残る。

「わがままじゃないですよ。すごく急なだけで」
「ごめんねえ、いつも見切り発車で」
僕の冗談に彼女は悪戯っぽく笑った。ルームミラーをのぞき、前髪を指でさっと整えて、マフラーに埋もれた髪を引っ張り出す。数えきれないほど練習を重ねたような無駄のない動きだった。

 

オーディオの音量を落とし、ウインドウを開けて煙草に火をつける。今日は運転手だからいいだろう。そんな風に、また自分に言い聞かせながら。

僕は幸運にも、文さんの唐突なリクエストに応えることができた。父の勤めている会社の福利厚生の一部に、リゾートマンションの宿泊権があったからだ。もっとも文さんは、突然お願いしたのだから車中泊になっても構わないと言っていたけれど。

青梅方面へ進み、鶴ヶ島から関越自動車道で北へ向かう。高速道路に入ると、無造作にディスクチェンジャーに突っ込んだCDのうち、偶然にもくるりの『東京』がかかった。創作の締めくくりにふさわしい!とひそかに僕は感動した。

でも、彼女は何の興味も示さなかった。1年間、さっきまで、腐るほど考えたテーマが歌われているというのに、左に流れる景色を眺めてばかり。

 

文さんが反応を見せたのは、『カレーの歌』というバラードのほうだった。冬に似合う物悲しいイントロが流れ出すと前へ向き直って、じっと頬杖をつく。興味をもったのは、単に好きなピアノが流れたからなのか、マイナーコードが心をとらえたせいなのか。

奇しくも、この曲の歌詞にも「東京」というフレーズが出てくる。『東京』と違うのは、別れを歌った曲だということ。あまりにもまっすぐすぎる歌詞に、僕はスキップボタンを押したくなった。

「いい曲だね」
彼女は先回りするように、ゆっくりと感想を漏らした。

僕たちはそれまで、終電がなくなったせいで朝まで過ごしたことはあっても、初めから泊まる予定で計画を組んだことはなかったし、これから先もないつもりだった。なんだか変なムードで、僕は鼻歌を始めた。次の次の知らない曲でも構わずに歌い続けていたら、隣からくすくすと笑い声がした。

 

「東京に欠けたものを見ないと、東京を描いたことにはならないの」
埼玉と群馬の県境にさしかかるころ、文さんは雪が見たいと言った理由に自分から触れた。
「そう思わない?」

なかなか頭に収まりづらい理屈だった。僕は前方に注意を向けたまま「分かる気もします」と答えた。この辺は多少適当でかまわない。

「だって、うるさいと感じるのは静かな場所があるからでしょ? 東京にはそれがないじゃない。たとえあっても、お金がかかるか、全然東京らしくないんだもの」

彼女はTシャツの袖口を引っ張り、ジーンズの裾を直し、CDを爪でコツコツと叩いた。慌ただしく手を動かすのは、考えながら結論を探る時にする昔からの癖だ。

 

 

山に入り、高速道路はますます闇を深めていく。刺激のない緩やかなカーブが続く。安全運転で進む僕たちの横を、数台の車が手負いの獣のようにのっそりと通り過ぎていった。新潟に近づくにつれそれも一台、一台と減り、同時に文さんの口数も少なくなっていく。

降りる一つ前のパーキングエリアに立ち寄る。もちろん煙草を吸うためだ。
コートの前を留めるのが億劫で、肩にひっかけてドアを開けた。身を切るような冷たい風が車内に吹き込む。すぐ戻ります、と言うと、「うん」と助手席からかすかに声がした。

バケツが何個かぽつんと置かれたふきっさらしの喫煙所で、ぎゅっと身を固めて煙草を吸う。火種がジェットエンジンみたいに激しく揺れた。ああもったいない。早くなくなってしまえ。煙草吸いにしか分からない、バカみたいな葛藤だ。

車に戻ると、彼女はマフラーに顔をうずめて眠っていた。

――気を使うことは、気を使わせることなんだよ。
偉そうに垂れる講釈が聞こえてきそうな、曇りのない寝顔だった。

 

 

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関越トンネルの手前で、雪はすでに数センチほど積もっていた。大掛かりな検問に車が長い行列をつくり、トラック運転手たちがタイヤにチェーンをかぶせる。

トンネルをくぐれば越後湯沢、あの小説『雪国』の景色だ。僕はそれまでに何度か見たことがあったけど、文さんはこの時が初めてだった。志半ばで寝てしまう前には、「楽しみで待ちきれない」と何度も言っていたくらいだ。

約10kmの長いトンネルは、残りの距離をカウントダウンして気持ちを煽る。あと1kmのところで僕はラジオを静かなチャンネルに合わせ、彼女の肩を叩いた。

 

そして車は雪国に放たれる。黒いキャンバスから湧き出るように、白のつぶてが迫る。文さんはすぐに感嘆の声をあげた。寝起きの悪い彼女にしてはとても珍しいことだ。足元に置いたカバンからカメラを取り出すと、ダッシュボードに体を預ける。その姿はまるで、寝こみを襲われた戦場カメラマンのようだった。レンズの蓋を足下に投げ捨てて、ファインダーをのぞく。雰囲気づくりにウインドウを少し開けると、彼女はつぶった右目に笑い皺を寄せた。

…いや、正確には目をつぶっていない。だって、ファインダーに当てているのは右目なのだから。彼女は片目だけをつぶるのがうまくない。長い間少しずつ訓練して、なんとか写真を撮れるようになったのだ。

 

思い出すのは、文さんがまだ高校生で、紺のブレザーを着ていたとき。
「最近クラスでゲームが流行ってるんだ。ウインクキラー。知ってる? 周りにばれないように、ウインクでみんなを倒していくんだけど、私がやると笑われるんだよね。なんか、うまくないみたい」

僕はそんな台詞を意外に感じた。彼女は写真部だったからだ。
「でも、写真撮る時って片目じゃないんですか?」
「普通はね。でも、両目を開けたまま撮るタイプもいるんだよ。私は昔からそうしてる。本当は片目のほうが集中できるんだろうけどね」

ウインクができないのも、両目で写真を撮るというのも、器用貧乏な僕には想像もつかない。そして、もうひとつ想像つかないことがあった。

「で、そのゲームは男女でもやるんですか?」
それは案外大事な質問だった。僕は男子校の高校に通っていたから、その辺の知識や免疫が極端になかったのだ。女の子にウインクなんかされたら、死んでしまうと思っていた。

「そういう時もあるよ、共学だもん」
彼女はこともなげに答える。
「でも忙しいゲームだから、かっこいいとかかわいいとか、考えてる暇もないよ」
僕はその言葉を待っていた。
「じゃあ、一度ウインクしてみてください」
そして、彼女は思い切り両目をつぶったのだった。

 

それから今日にいたるまで、彼女は少しずつ訓練して、片目をつぶれるようになった。僕はそんな歴史の一部始終を見てきている。

不器用ながら懸命に歪む大きな瞳。エネルギッシュで、飴玉のような艶をたたえている。それは彼女の象徴みたいなものだ。残念ながら2人で撮った写真の何倍も激しく、僕の脳裏に焼き付いて消えない。

 

***

塩沢のリゾートマンションに到着したのは午後11時ごろ。駐車場は屋根つきの箇所だけきれいにうまっていて、外に停めるのは僕たちが第1号だった。

ロビーの自動販売機でジュースとビールを同じ本数買ってから、キンキンに冷えたエレベーターに乗りこむ。昇り始めると、気圧の変化か、はたまた雪のせいか、音がまるで消えてしまったような錯覚があった。逆に、それまで鳴っていたかすかな音に気づかされたくらいだ。

運転の疲れも落ち着いて、少しだけ目が醒める。いったい僕は何をしていて、この人をどうしたいんだろう。まあいいや。飲めない酒でも飲んで、向こうが寝るまで話をしよう。

文さんはずっと外を眺めていた。もしかしたら彼女は生まれて初めて、こんなに雪を見たのかもしれない。

 

1201号室のドアは分厚く重い。僕は両手を使ってそれを壁から剥がすと、軽く背伸びをしてブレーカーを入れた。コウン、という音とともに換気扇が回り、潜んでいた部屋本来のにおいがあふれ出す。

荷物を置く。すると、後ろから声がした。

「私、結婚することにしたよ」
あまりに突然の告白だった。いつもの文さんの言葉とは逆で、シンプルすぎて、頭にうまく入らない。

「去年の今ごろに、彼が京都に異動するって決まったの。一緒に来ないかって言われてたんだけど、無理を言って一年だけ待ってもらったんだ。彼には内緒なんだけど…記念をつくるために」
嬉しい言葉と、たぶん悲しい言葉があった。

「おめでとう、ですよね」
この期に及んで取り繕う僕の言葉に、文さんは困り顔で首をかしげた。

 

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「オレンジ」

街を歩くと、そばを犬が通る
街を歩くと、たまにむしずも走る
昼になると、そばが喉を通る
昼になると、朝の悪寒が消える

一時、すべての瞬間がうすれ
濁り合って変な側道でつながれる
時々、砂時計が止まるように
ドキドキと温もりが始まるように

 

現在地、何丁目何番何号
潜在知、難しい言葉の記号
遊園地、楽しいところ
アルデンテ、ちょうどいいところ

僕たちは現在を散歩する
過去の足跡と未来の足音
そのあいだでかすかに
黙々とそして舞い散るように

 

朝方、オレンジが昇る
夕方、オレンジが沈む
朝方、くらくらする
夜毎、ムラムラする

威勢のいいことを言って
中途半端なところで飽きて
異性をちょっと意識して
休日に寝癖を立てながら



どうやって
息をしてたんだっけ?
藪から棒な蛇足に羊は解散し
ちょっとだけ、寝れなくなる

でかい音楽をかけたい
でも、近所に迷惑がかかる
ヘッドホンを店頭で物色し
いい感じのオレンジを見つけたよ

 

だから自分本位に耳をふさいで
ただの興味本位に襟を開いて
胸に手を当てれば徳、と聞こえて
少し待ったら毒、とも聞こえる

独特、功徳
そんなものを人脈と街は言い
不整脈の行く先に
正直者が舌を噛む

 

溢れるブラッドオレンジ
熱を冷ます酸性雨
不測でいい
タクトを振って

さあ胸、詰まり
眠れない夜に
まぶたに映る合図
空からの音楽を

音符のような歩みの音を
精一杯奏でていこうか

 

―3月<歩み>の言葉―