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詩集『灰も落とせない指』更新中/ほか作品集は最下部から

【2】Sunday Girl

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2. Sunday Girl/2003年1月~12月21日

カレンダーは店頭に並んですぐにいくつか売れたらしい。電話越しに聞かされた文さんからの報告に、僕は喜びながらも、どこかすっきりしないものを感じていた。電話を切った後、カレンダーをケースごとくるくると回しながら、その理由を考えてみる。

すぐにいくつも思いついた。渋谷区ばかりを撮ったカレンダーの表紙に、東京タワーを選んだ理由。タイトルの『道京』、記念の意味。そしてなにより、全体的な出来の悪さ。とても彼女が満足できるはずはないのに。

と、再び電話が鳴った。

「あの、日曜日予約したいんだけど」
彼女は珍しく慌てていた。忘れないうちに伝えたいことがあったのか、あるいは美容室と間違えたのか。
「日曜日……12日ですね、いいですけど、今度は何つくるんですか?」
「あっ、違うの違うの。全部予約したいんだ。君の今年の日曜日、全部」

 

 

 

ということで、僕は2003年の日曜日すべてを文さんのために捧げることになった。大学生とはいえすでに留年が決まっていたから日程は問題なかったし、もちろん、当時付き合っている人もいなかった。息抜きとしてはむしろ大歓迎だ。
一方、彼女は社会人1年目だったから相当覚悟が要ったはずだ。果たして、どれほどの大作を計画しているのだろう。

 


2003年1月12日。
吉祥寺駅から井の頭公園に向かう道すがら、本が作りたい、と文さんは言った。

「カレンダーは新年らしい日に出したかったから急いで作ったけど、君の言葉を見てたら、なんかもったいなく思えちゃって。記念は記念でも、やっぱり1年かけて豪華なやつにする」
1冊の本をつくるのにどれだけのエネルギーが必要なのか。あまりにスケールが大きくて、僕には見当もつかなかった。しかも現時点で決まっているのは、東京の本をつくるということだけ。

「大丈夫。一緒に行けば、固まっていくよ」と彼女は言った。その静かな闘魂は、いつだってためらう僕の背中を雑に蹴り飛ばす。

 

「こうしてまた君の力を借りるのは、作品に枠組みをもたせたいから。私にはどうしても芯のあるものが書けなくて。大切なことを思い浮かべるほど、私の言葉は薄っぺらく、不足してしまうの」
文さんは後ろで手を組み、自分のつま先を見つめてトボトボと歩きながら、自分にはいかに文才がないかを自虐的に語った。

確かに、彼女の文章はなかなかのものだ。本はよく読んでいるから語彙は十分だし、部分部分を見ればまずい表現もないのに、まるで頭に入ってこない。そこには読み手を誘う隙や、都合のいい嘘がないからだ。

「かといって、ああいう切り売りじゃだめなの」
彼女が指差した先には、当時幅をきかせていた路上詩人がいた。政治家みたいな仮面の笑顔を貼りつけて、会ったったばかりの人に愛の言葉を切り飛ばす。
「あれは詩ではなく、はずれのない占いだ」と彼女は言った。

僕たちは手探りで写真を撮り続け、へとへとになるまで歩いた。必然的に、幸せはまた珈琲と煙草に収束していく。

 

第1・第2日曜日は新しい土地を訪れて、写真とアイデアをためる日。他の日曜日は、制作と反省の繰り返し。雨の日も、風の日も。僕たちは愚直に東京中に写真を撮り続けた。そこにはモチベーションなんて横文字の入る隙間はない。

文さんは年末の渋谷で使っていたポラロイドカメラではなく、愛用の一眼レフを使っていた。ただ、撮り直しが利くからと言って、彼女の撮影ペースは変わらない。鋭い眼光をたたえながら、よく言えば一撃必殺、悪く言えばもたもたと撮影するのが彼女のスタイルだ。

カレンダーの時に決めた月毎のキーワードは引き継がれた。1月は「幸せ、幸せ」と青い鳥を探すように街を歩き、2月は「温もり」を探してさまよう。

 

 

3月、4月、5月。方針が決まらないままカレンダーはめくられて、過ごした日の数だけ写真がたまった。ある程度納得のいく写真は、だいたい1日1枚のペース。これじゃ、またカレンダーができてしまうじゃないか。

手応えはなかった。依然として、2人とも好きなのはどれかという基準でしか、写真を選別できてはいない。文さんは時おり迷いの言葉を浮かべながら、それでも、どこか達観したような表情を浮かべていた。

6月、7月、8月。僕たちは歩きながら、とにかくよく話をした。カレンダーの時のように、ごく限られた時間で制作したのとはまったく別の、ゆるやかな時間が流れていった。本は広大なキャンパスだ。もう、前のような秘密主義ではいられない。ひっかかりがあれば徹夜で語りつくして、そのまま職場と大学へ散ることもあった。

 

 

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「最近、君が予言者に思えるときがあるの」

隅田川の花火大会が始まる直前、かき氷を食べながら文さんが言った。祭りの空気があたりに伝搬していて、彼女の口ぶりも妙に昂ぶっていたのを覚えている。木製のテーブルに覆い被さるようにして顔を近づけてくる。丸く大きな瞳はカラフルな夜景を映し、すっかり伸びて地色に戻った黒髪が乱れて垂れた。

「道京で作った珈琲と煙草のときもそう。あんなに思い付きで書いたものがいつの間にか象徴になって、ちゃんと目の前に現れてくれるんだ。街が君が書いた景色に見えて、まるで思考と言葉が、焦点を作りだすように近づいていく」

それは、と言おうとするのを彼女が遮る。
「ねえ、どっちが先?」
彼女の持ち出す疑問は、鶏が先か卵が先か、に似ていた。

 

(ただの買いかぶりですよ。)

僕はつまらない言葉を飲み込んで、話をつづけた。何かをつくっている時くらい、おごっておいたほうがいい。
「昔よく聴いた曲に出会って記憶がよみがえる、みたいなことですかね?」
「そんなものだよね、きっと」
文さんは納得したふりをして、まだ悩む。

「……でも、私が言ってるのは過去より、未来に出会う感覚なんだ。どこかに連れて行ってくれる予感、っていうのかな」

もしかしたら、その言葉には大事な呼び掛けが含まれていたのかもしれなかった。僕はそのとき、気づけなかったのか、気づかないふりをしていたのか。細部を思い出そうとすると、彼女の声は厚い雲に覆われたように隠れて消える。

四六時中、言葉を探していたはずの2003年夏。そこに照りつける陽の記憶はない。

最後の花火が散ったあと、彼女はどこかふっ切れたように言った。
「でも、一緒に街を歩いていればすべて決まっていくっていう私の預言は、たぶん間違ってないんだよな」

 

9月、10月。僕は一生のうちでもっとも芸術らしい秋を過ごした。
文さんは文才こそないが、口から飛び出すその感性は瑞々しさに満ちている。話題はだいたい、生物や環境のこと。自然への盲信もなく、人を過信するでもない。日ごろ大学で学者の言葉を聞いていた僕にとって、その理は熱く、生の活力に満ちて聞こえた。

図書館で長い時間を過ごすこともあった。とはいえ、調べ物をしているのは僕だけだ。花、空、星の名前。同じ東京生まれだというのに、マンガとゲームばかりだった僕は自然のことを何も知らない。彼女は向かいの席で絵をかくのが通例で、飽きたら潔く突っ伏して眠っていた。

10月の終わりに僕は22歳になり、また彼女に追いついた。向こうは3月の早生まれだから、学年としてはひとつ上。よく考えたらたった数か月しか変わらないのだ。それでも最初にあった日から、僕は敬語を外せないまま。

 

 

11月。残り時間は少ない。僕はなぜか、熱中する文さんを見るのが惜しくなった。

駅で落ち合った瞬間に英字新聞の切り抜きを取り出して、新種のクジラが発見されたかもしれないと説明を始める。コルビュジエの『小さな家』に潜む有機と無機を説き、キース・ジャレットの『the melody at night with you』を、片耳ずつイヤホンを分け合って聴かせてくれた。夢中になれば、お気に入りのマフラーが落ちても、お洒落メガネがずれても構わない。そして、僕が男であることにも無防備だった。

男女間に友情が成立するか、なんて使い古された議題がある。いまだに最適解は分からないけど、ふたりで作品をつくる時間は、そんな議論の対極にあるものだった。直接的な表現をしたり、身体に直接触れることなく、お互いをどれだけ遠慮なく愛せるか。僕たちはひたすら同志であろうとした。

彼女は僕のことを「君」と呼ぶ。その心地よい響きが、適度な距離を保ち続ける。

 

12月。1ダースのチョコレートをむさぼるように、創作の日々は減速することなく過ぎ去った。遠い未来から振り返ると、甘くて、空っぽで、夢のような日々。数えきれないほどの写真が残っているのに、夢だなんて言い張るのはおかしいけど。

 

 

2003年12月21日。最後から2番目の日曜日、僕たちは池袋のカフェで打ち上げをした。居酒屋みたいにけたたましい店員の声が、飛び交う噂話に適度なオブラートをかぶせる。まさに東京。人々はその音で、孤独を和らげているのだ。

僕はトレイにクロワッサンを2つ取り、2杯の珈琲を載せ、プラスチックの灰皿を添えた。喫煙席の奥で待つ文さんのもとへ歩いていき、
「いい記念になりましたか?」と聞いた。

1年が経ち、僕は彼女の目の前で煙草を吸うこともまるで平気になった。

 

文さんは隣のテーブルも使って大量の写真を並べ、地図を見るように見渡す。この日に撮ったもの以外は、プリントアウトして常に持ち歩いていた。東京と聞いてすぐに浮かぶ観光地はもちろん、あまり知られていない史跡や、最新スイーツのお店もあった。そんな風に写真は増えていくのに、違和感は日に日に肥大していた。

「何かが足りないのよね」
彼女は率直にそう断じた。僕もまったく同感だった。意外だったのは、彼女に失望の色が見えなかったことだ。写真はそれなりでも良い本を作る自信があったのか。それとも、「作ることに意義がある」なんてらしくないことを言い出すのか。

僕はクロワッサンを3分の1くらいかじると、ゆっくり咀嚼して次の言葉を待った。何かを予想したりはしない。どんな風に試みても、彼女の言葉を当てることなどできないだろう。

 

「ねえ、雪のある場所へ連れて行って。」

 

 

そうか、12月のテーマは<願い>だったな。

 

 

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「少女」

 

暗い夜に降りだした
斜めに叩きつける雪の中で
少女は僕の心をすくい取った

滑る手元に傘が転がる
何を迷うのと訊く
目深にかぶった帽子の中で
ため息が深く鳴いていた

 

手袋を外し
柔らかい頬を挟むと
冷たい、と首をすくめた

あれ、おかしいな
ちゃんとつけていたはずなのに

 

「世の中には、
ハート型の手袋があるんだよ。
手を突っ込んだなら、

真ん中でつなげるんだ。」

 

 

なだめるように
少女に言って聞かせる
仕入れたばかりの世話事は
難しいことが多すぎる
世の中のリズムを
少しだけ和らげるばかり

人は迷い続け
やはり誰かを傷つける

 

伝えたい
都会の隅で
いや、ツンドラの中でさえ
きっとそう、望んでしまう

冷たい雪は
何を暗示して消えていく
誰かの言葉を
吸い取ったまま、ものも言わずに
手のひらからこぼれ落ちる
熱に溶ける性質を
幸せと名づけたら
この声も、報われるのか

 

 

性懲りもなく、空のピアノを弾く
少女の寝息で
指先に温もりがともった


窓の外は
部屋の明かりが届く範囲の雪景色
工事現場のパイプに
器用に雪が降り積もる

目の粗くなったマフラーを
そっと少女の首にかける
いま 届く限りまで
満たし満たされるために

 

暗い夜に降りだした
斜めに叩きつける雪の中に
まぶしさがともる小さな部屋

暗くて明るい
ため息と温かい頬
不器用な指のすべてで


言葉尽きる限りの優しさを追ってゆく

 

―2月<温もり>の言葉―