【ことば倉庫】

詩集『灰も落とせない指』更新中/ほか作品集は最下部から

【8】ひみつ

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8. ひみつ/1999年12月

しばらくすると雨が降ってきた。小走りで待ち合わせ場所近くの喫煙所へ急ぎ、濡れた灰皿で吸殻をねじる。「まったく面倒で、体に悪くて、それにお金もかかる。臭いだってある。何のために吸っているんだ」なんてことは微塵も思わない。
それが気持ちを安定させる”おしゃぶり”だと認められるのは、煙草をやめた人だけだ。

 

「やっと終わったよ。早く中に入って何か食べよ」
文さんが大きめのトートバッグをかけて迎えにくる。だいたいカメラを持ち運んでいるし、整理整頓がうまくない人だから、彼女はいつもパンパンのカバンを半分抱えるように持っている。かといってこちらから「持ちます」と提案しても、撮影時以外はだいたい断られる。
もしかしたら、それは僕のタバコと同じように、ぬいぐるみのような役割を果たしているのかもしれなかった。

 

終わりかけのショッピングモールを、ふたりでしばらく散策する。当時は昭和を復刻させたようなレトロなテーマパークががやたらと流行っていて、お台場にも昔ながらの駄菓子屋がオープンしていた。

ざらめのついた焼きたての煎餅をかじり、欲しくもないガチャガチャをする。東京出身同士で、東京土産を見て回る。

相変わらず僕たちはよく迷子になった。冬は誰もが同じような色の服を着ているから、人と交錯するたびに、いちいちお互いの姿を探さなくてはいけなくなった。僕は立ち止まり、彼女は前へ行く。その図式はずっと変わらない。
ところがいちいち足を止める僕を見かねたのか、エスカレーターに乗る直前になって、ついに怒られてしまう。


「今日だけだよ」
文さんはそう言って腕を絡めた。


エスカレーターが昇っていく。お互いにまったく横を見ようとはしなかった。151センチと、174センチ。彼女は一段上に立っていたから、ちょうど身長差を補う形になってしまって、肩の位置がものすごく近かった。それからは目が合わないようにぎこちなく視点を動かすことになり、危なく目が回ってしまうところだった。

遠くの方に似顔絵師の姿が見える。客はいない。今が旬の芸能人を書いたものを目立つように並べている。僕は、文さんの顔を似顔絵にするならどんな風なるだろうと想像した。すこしとがった耳、自然にもちあがった口角、背のわりに長い首。薄い唇。僕が無意識に向けた視線に気づいた彼女は、右の頬だけを持ち上げたようにして笑う。

「どうしたの?」
少し腕に力がこもった。飴玉のように大きな眼が、柔らかく潰れて光る。
それこそが、彼女のアイデンティティ

 

レストランはどこも、普段は目も向けないようなきちんとした店ばかり。それでも、どうせならとレインボーブリッジがよく見える店に入った。
「男の人が通路側なんだよ」
出会ったころ、諭されたことをふと思いだした。

白い皿に点々とついたソースを、茹でたキャベツで絡めとる。白いニットからはみ出した彼女の指には、今日もいくつかの指輪がついていた。
「手を繋ぐより、腕組むのが好きなんだ」と文さんはまっすぐに僕を見つめた。「でも身長差があるから、君は少し歩きづらいのかな」

「ある意味、良くないけど」
僕はブレーキを失ったようにそんなセリフを漏らした。ちゃんと冗談と分かってもらえるのだろうか。それとも、本気と受け取ってくれるのだろうか。彼女は僕の戸惑いを見て取ると、何かと比べるように降り続く小雨を眺めた。色々な感情が詰まった横顔は、そのまま額にはめられそうなほど様になっていた。

「なんで?」と彼女が聞く。
「分かってるだろうけど、ずっと憧れてた人だから」
「それを言っちゃダメだよ」
短く、静かで、早いやりとりに、

「そうだ、何時までに戻ればいいんですか?」
僕は少し現実を呼び戻す。
「あと30分くらいかな、まだ大丈夫」と彼女は答えた。


ここに僕を呼んだこと。腕を組んだこと。用意周到なくせに偶然を好む彼女が、どこまで予想していたのかは分からない。僕もまた、自分がどこまでを欲しがっているのかは分からなかった。でも、まだ帰るわけにはいかない。それだけは分かる。
「食べ終わったら、せっかくだから観覧車にでも乗ろうか」
一歩先に伝票を拾い上げて彼女が言った。

 

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まだらに霧がかった夜空だった。依然として現実の色を見せない街の中を、虹色のゴンドラがゆっくりとまわっている。その中のひとつ、赤いゴンドラの中で、文さんは斜め後ろを向いて、広い海がある方を眺めていた。冬だというのに自分の手が汗だくになっているのが分かる。もう、とても普通の精神状態ではいられそうにない。

ちょうど120度くらいまで高度を上げたところで、僕はたまらず告白を始めた。
「言ってなかったけど、高いところ苦手なんです。さっきから手すりを全力でつかんでたら、汗がすごいことになっていて」
さすがにそんな言葉は予想外だったようだ。彼女はたくらみの表情を浮かべると、僕の横に座って全力で肩を揺すった。いや、ちょっと、ほんとに。

「意地悪してごめんね。言ってくれればいいのに」
「でも、こんな風になれることなんてないから」
僕は少し攻めたつもりだった。ただ彼女はその言葉を重く取ることもなく、
「だってこの観覧車、ギネスに乗るくらい大きいんだよ」と笑った。

 

頂上を告げるアナウンスが流れる。文さんはまた腕を絡めると、今度はその先にある手の平を開いて、ぎゅっと握った。まだ汗をかいていると小声で告げると、彼女は無言のまま僕の甲をトントンと叩く。

「たばこのにおい」
顔をしかめながら、彼女の唇が首筋に触れる。そのまま唇の端を通過して、耳の方へ抜けていく。全身は電気が走るように硬直して、恐怖心が闇の向こうに飛んでいく。

「戻れなくなるよ」
「それを言ったら、もっと戻れなくなるよ」
僕はそんなやりとりにかまわず唇を重ねようとした。だけど彼女は目を逸らすようにしてそれをかわすと、再び僕の首元に唇を着地させた。

 

***

 

帰り道、モノレールから眺めるビルの灯りが、ところどころ潰れて窓ににじんでいた。古い映画を見終わったあとで現実に戻されたような気分。僕たちはちゃんと戻れているのか。いや、そもそもどこかへ行けたのだろうか。

 

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「いまはそんなことより」

長い雨のあとが
どこかに残っていて
突然、間をおいて現れたような
蒸し暑い8月の午後
神宮外苑
細い身体のランナー
広いグラウンドで
僕らは草野球をただ 眺める

 

キンと強い打球音
ふっと見上げる青空
つんと頭刺すかき氷
舌の真ん中がレモン色

変わった形の建物
ゆるやかな落陽と
次第に強まる窓の明かり
少し荒れたグラウンドにふたり 立ってみた

 

誰かの忘れ物
荒れた硬式のボール
ふっと投げるその手
白くて とてもか細い

彼女が何かしゃべっている
僕はそれを眺めている

少し涼しい夏の暮れ
でもいまは、そんなことより

 

心持ちすねた
彼女の声が聞こえる
まずい何も聞いてやしない
時々、そんな繰り返しが
連結部分をおびやかす
アコーディオンを伸ばして
戻った拍子に弱音が鳴る

でも深呼吸すれば笑顔が戻るのを
幾度となく見てきたのが頼もしい

 

時々、僕らの表情は
望むよりずっと遠ざかる
まるで見当違いの球を
どこかへ逸らしてしまうように
彼女のグラブは柔らかすぎて
僕は端っから素手

頭ごなしに投げるのは 
やっぱり良くないことだな

 

彼女がボールを取りに行き
腰の高い草に埋もれる
砂交じりの風
淡いライトと淡い月
山なりの返球が
目測を越えて頭上を抜ける
その行方 追うには遠い
でもいまは、そんなことより

 

夏を飛び越えるように
帰り道 金網をくぐる
特別なことなど
何も語り合わなくても
不意にこけたり
はにかむ表情を
完璧より 理想より
僕は強く望んでいる

 

―8月<暮れ>の言葉―