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詩集『灰も落とせない指』更新中/ほか作品集は最下部から

【1】散歩道 (小説+詩 全12話)

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『道京』

1. 散歩道/2002年12月26日

クリスマスが明けた早朝に電話が鳴って、「渋谷に9時」とだけ言って切れた。なんて不作法なタイミング。間違いなくデートの誘いじゃない。そもそも、こんなことをするのはひとりだけだ。

僕は半ば条件反射で身支度を始めた。当時はまだ大学生で時間もあり余っていたから、眠い以外に断る理由は何もなかった。むしろ嬉しかったくらいだ。なんといっても、久々にあの人に会えるのだから。

今日も長い撮影になるだろう。モッズコートを羽織って、八王子駅から新宿方面の快速電車に乗る。

 

年の瀬迫る朝の渋谷駅は精彩を欠いていた。なんというか、夕方に似ていた。クリスマス用の飾りを撤去する店員の表情に、希望とともに一日を迎える気概は見えない。
僕はフードを深くかぶり、冷たくなったハチ公に寄り添って煙草を吸った。

 

文(あや)さんは軽い寝癖をつけて現れた。ベージュのトレンチコートを蝙蝠みたいに折りたたんで、ほんのわずかな風すら肌に触れさせまいとしている。えらく不満げな顔で、まるで誰かに無理矢理連れ出されたように見える。彼女は無言で飴を2個取り出すと、ひとつを僕に手渡し、もうひとつを自分の口に投げ入れた。

足早にスクランブル交差点を歩いていく。お世辞にも豊かとはいえない胸の上で、見覚えのないポラロイドカメラが不規則に跳ねていた。それはあまりに軽やかで、間違えて玩具を持ってきたんじゃないかと思ったくらいだ。

現に、彼女は写真をなかなか撮らなかった。カメラをくるくると回して、いろんな角度から眺めては、首を傾げたり、適当にボタンを押したりした。気のせいか音も鳴った気がする。
記念すべきその日1枚目の写真はその辺の地面。
「わざわざ今日のために買ったのよ」と、彼女は真顔で弁明した。

 

渋谷駅からタワーレコードの前を通り、ファイヤー通りを抜けて、原宿、表参道へ。小さい目しか出ないすごろくみたいに進んでいく。僕は彼女が何を撮りたいのかを聞かされていなかったし、聞くつもりもなかった。下手に詮索すると作業が長くなることを、僕は経験則として知っていた。しばらくは黙って荷物持ちに徹した方がいい。

「ポラロイド写真はばたばた振っちゃいけないんだよ。知ってた?」
文さんが写真を僕に手渡しながら言った。僕は彼女の、子供に知識を授けるような遠回しの注意が好きだ。

 

2002年の東京は写真を撮る者の前に従順だった。ダークカラーを揃って身にまとう人たちの群れは、小柄な女性カメラマンの身ひとつでチーズみたいに避けていく。

何を撮ってるんだ。人々のかすかに浮かんだ不躾な興味は、レンズの先を一瞥した瞬間に力なく消える。僕はそんな光景をずっとを眺めていた。写真を撮る人を見る人を見る、というのは不思議な体験で、そこには世界から除け者にされたような寂寥と、全知全能になったような錯覚が同居していた。

 

彼女が何を撮ろうとしているのかはいつまで経っても分からなかった。古本屋の軒先、肩車された子供、ぬいぐるみ、ジャズクラブ……被写体には統一感がまるで見当たらない。当時すでに撤去が決まっていた青山アパートだけは入念に撮っていた気がするけど。シンプルに好きなものを撮っている? そんな予想は、犬嫌いの彼女が犬を激写したことで即座に潰えた。

 

気がつけば時刻は17時。僕たちは、日の暮れかかる公園で一息ついた。

「よし、いちおう全部撮れたかな」
文さんはカメラのストラップを首から外しながらそう言った。文字面とは裏腹に、時間切れを惜しむようなわがままな声色で。肩にかかる茶色い髪をふるふると揺する。両手の指を深く絡めてひと伸びすると、コートとスニーカーがつられて浮いた。

「どうする? ちょっと早いけどご飯でも食べよっか?」
彼女は僕の返事を待たずに歩き出す。

ブランコをS字に抜けて、公園入り口の車止めをまたいで。くるくると頻繁に向きながら、無闇に眩しい冬の夕陽の中へ溶けていく。僕はその詳細を掴み取ろうと目を細めた。表情、服の色、どこを向いているのかだけでもいい。だけど瞬きをするたび、彼女はまた影絵に戻ってしまう。

 

 

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松濤のイタリアンレストランでパスタを平らげると、僕は今日1日で撮った写真の束を文さんに渡した。丸1日かけたというのに、その数はわずか50枚にも満たない。

「幸せそうな景色、なんてそうはないものだね」
僕はそこでやっと、その日のテーマを知ることができた。
「今日は幸せな写真を撮ろうと思ってきたの。でも、なかなかうまくいかなくて途中で曲がっちゃった」
「曲がった」
「そう。やっぱり最初に決めたコース通りにはいかないね」

彼女はなにやら神妙な顔つきで写真を回収して、とんとんと端を整えると、賞状を渡すようにして両手でこちらへ渡す。それから、耳を疑うようなフレーズを口にした。

 

 

どうか、幸せにしてください。

 

 

思わずはっとした。そんなセリフ、一緒のうちに何度も聞けるものじゃない。香気の強い花束を手渡されたように、一瞬頭の回転が鈍くなった。僕はいったん頭を振ると、心の中で彼女の真意を整理した。ゆっくり考えれば簡単だ。

その写真を幸せな作品にして、ということだろう。

 

僕たちは学生時代から一緒に創作活動をしてきた。いわばパートナーで、恋人とかそんなんじゃない。文さんは昔から写真やデザインを勉強していたし、将来もそっち方面に進もうとはしていた。彼女が言葉を使う作品を作ろうとするとき、僕は中身を考えるためにたびたび手伝ってきたわけだ。

カバンからノートとペンを取り出し、とりあえず紙面の真ん中に「幸せ」と大きく書いてみる。なにせ何も学んでいないもんだから、こんな稚拙なやり方しかできやしない。類義語を並べたり、連想ゲームみたいにつなげてみたり。幸せとは何か? そんなテーマは大きくて狭い。あまりにも各々の感性に依りすぎるからだ。

 

「…カレンダーにしましょうか」
しばらく悩んだ挙句、僕が提案したのはごくシンプルなアイデアだった。年末だったし、12個と数が決まっているのは何かとやりやすい。

ただ、口に出してすぐに激しい後悔が襲った。あまりにも俗っぽくて、とても彼女の好みとは思えなかったからだ。

 

ただ僕の思惑をよそに、彼女はそれを有力な候補として受け取ったようだ。目をぎゅっとつぶって、開けてを繰り返し、12枚の写真を時計周りに並べていく。

「ありがとう。おかげさまでイメージはできたよ。じゃあポラロイドのフレームに、君の好きな言葉を書いてほしいな。一言だけのコピーでもいいし、単語でも、詩でも、俳句でもいいから」
俳句はないだろう、と心でツッコミを入れて、僕は彼女の要望を聞き入れた。あまり深く考えることもなく、12か月分のキーワードと文章をつくっていく。

そこにはちょっとした仕掛けを入れた。1月の文章には1月と12月のキーワード、2月の文章には1月と2月のキーワードを含ませるようにして、すべての月が繋がるようにしたわけだ。

 

たとえば、

・12月のキーワード→<願い>
・1月のキ-ワード→<幸せ>
・1月の文章→『息づく珈琲と煙草の吐息が、願うように交差する幸せの1月』

こんな風に入れるってこと。

ちょっとした遊びだけど、これでカレンダーの使い捨て感が薄れて、季節が巡るようなイメージになればいいなって。

 

文言が決まったら、マジックペンで12枚分を慎重に書き上げていく。字が汚いから本当は嫌だったけど、どうせ拒否権などなかっただろう。

ちなみに文さんは僕の1つ年上。当時で23歳か。ただ知り合ったのは中3と高1の時でつきあいは古く、いろいろ相談してきた間柄だから、単純な年の差以上に頭が上がらない部分があった。

 

僕はすべてを書き終えると、そばにあった店の名前入りマッチをぱちんと弾いた。この日2本目のタバコはかすかなリンのにおい。彼女があまり好まないのは分かってるけど、せめてひと仕事終えた時くらいいいだろう。
それになんといっても、珈琲と煙草は幸せだとカレンダーに書いたばかりなのだから。煙は運よく風に乗って、梁の方へ飛んで行った。

 

「でも、なんで渋谷の写真を撮ろうと思ったんですか?」
帰り道、僕はふと彼女に聞いてみた。

「さっきも言ったことなんだけど」と前置きして、彼女は答える。「幸せな景色を探したかったから、っていうのが大前提なんだ。別に、渋谷じゃなくても良かったの。目的はあるんだけど、なんていうか…記念みたいなものかな」

 

記念。
写真にお似合いのそんな言葉には、強い違和感があった。思い当たる出来事もなかったし、それこそ彼女が好まない俗な言葉だ。

「記念、ですか」
「そう。せっかく東京に生まれたんだからね」
意味は分からない。ただ論理性はなくても、くっきりと意思をもった答えだった。まるで最初から用意していたみたいだ。

僕があっけにとられていると、
「今日もよくできました」と彼女は微笑み、また勝手に歩いていった。その笑顔を見た瞬間、なんだか遠い昔に戻ったような気分になった。

 

***

ーー2週間後。

12枚のポラロイド写真はちゃんとデザインされて、風合いの利いた正方形の紙に複写され、アクリルケースに収まって、青山の書店に並ぶことになった。僕は彼女にその旨を知らされると、実際に店に行ってサンプルを手に取った。自分の字が売り物になることが、こんなに気恥ずかしいとは思わなかった。

表紙には渋谷にあるはずのない東京タワーの写真と、中身よりずっときれいな女性の文字。

『道京(とうきょう)、2002年、カレンダー。』

 

 

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「風船」

 

机に向かって
ペンを走らせる僕の目の前に
突然、現れた
むき出しのままの鍵盤
白は弾き返すように
黒は吸い込むように
音もなくたたずんでいた

 

目を凝らすと
ぼんやりと情景が浮かび上がる
指を一本落とすと
レコードみたいに動き出す
途切れ途切れの物語
筋も、旋律も、抑揚も
描き出すすべを知らずに

一人子の魂が
気だるい調子で鍵盤をたたく
鳴らす音は
意味以外の何かを連れてくる

じっと耳の後ろをくすぐる汗
「暑いな」
小休止に窓を開けると

薄曇りに
一筋の光がさす空があった

 

 

陽の眩しさに額を絞り
あらためて目を落とすと
鍵盤はすっかり熱を強めながら
太陽の緑色だけを映し返す
手首から指へ
信号は次第に広がりを求めて
片手じゃ足りないと嘆くから
面倒でしまったふりの左手を
仕方なく、行儀よく、預けてやる

すると、どこかから
シャッターを切る音
ゆっくりと
鍵盤に浮かび上がるひとつの輪郭
少年の泣き顔
かかとを踏んだ靴
そして外れたボタン

 

――幸せとは何ですか?
彼はたずねて、消えていく

 

それは夜中に起き出して
母親にぶつけるような
ただただ一方的で、
無邪気な質問だった

 

 

その日から
僕はひたすら考えた
些細な悩みはいつも
コーヒーのそばのミルクのように
灰色の罪に
対比の美しさを伴って
頭を駆けては
飲み干す前に消えてしまう

ところが考えるだけの人間に
世間は用がないらしく
どけ、と煽り
急げ、とせかし
遠慮なく背中や胸をついた



それでも、考えた

 

 

少年は夢の中で
風船を手放したみたいな顔で
気まぐれに現われては
何度も問いかける
2003年
川沿い、橋の上
錆びた東京の空は
何を僕〝ら〟に問いかけた?

手をかけた瞬間
音楽が始まるんだ
指を離すと
またふっと途切れてしまうんだ


手ごたえのない紐をたぐる
離したら
指を切りそうな
答えのないピアノ線を
そうだ
何かを掲げる先には
きっと飾りがいるだろう

薄い膜に言葉を流しこむ
無理を通すように息を吹く
分かってる
気球には足りないこと
身体ごと連れ出してくれるなんて
ないってこと




頬をふくらませ
舞いあがるように
物語は宛てもなく飛んでいく
願いを載せた
淡色の短冊をたずさえて

その重みに自らを震わせて
風の音を聴きながら


ー1月<幸せ>の言葉ー